クリストファー・ノーラン全史⓪ -『Doodlebug』まで‐ ノーランはなぜ映画監督になったのか

ダークナイト』三部作、『インセプション』『インターステラー』などの、作家性を全面的に押し出しながら興行的にも批評的にも大成功を収めている映画監督クリストファー・ノーランの歴史を、関連書籍やインタビュー、オーディオコメンタリーなどを元に、作品ごとに簡単にまとめていきます。

今回は第0回として、出生(1970)から長編映画監督デビューする前の短編作品『Doodlebug』(1997)までをまとめます。

 

幼少期(1970年~1980年)

1970年、客室乗務員(後に国語教師)でアメリカ人の母と、広告代理店で働くイギリス人の父の比較的裕福な家庭のもと、3人兄弟の次男としてロンドンで生まれた。幼少期はイギリスで暮らしつつ、夏はアメリカにある母方の祖母の家で過ごすという生活を送っていた。彼は今もイギリスとアメリカの2つの国籍を持つ。

ノーランが映画の世界に足を踏み入れるきっかけとなったのは7歳のときに観た『スター・ウォーズ』(1977)であった。ノーランはこの映画に夢中になり、何度も繰り返し鑑賞し、制作方法や舞台裏について書かれているあらゆる本を読み漁った。

翌年、ノーランは映画制作への道を決定付けるものと出会う。それは8歳の誕生日のときに父親から貰った8mmフィルムカメラである。ノーランはこれを使って友人達とスター・ウォーズを模した『Space Wars』(1978)という映画を作った。登場人物はおもちゃのフィギュアで、卵の箱やトイレットペーパーの芯でセットを作り、小麦粉を使って爆発を再現した。ここからノーランの映画作りの道が始まった。

 

学生時代(1981年~1992年)

11歳のときに一家はイギリスに戻り、父親の意向で私立の寄宿学校に通うことになる。厳しく冷たい学校で、食事は不味く、些細な違反でも鞭で打たれるような場所だった。ここでは毎週映画の上映があったが、それは士気を高める目的の戦争映画ばかりであった。ところがある時、『ブレードランナー』(1982)を30分だけ観せてもらえる機会があった。後に『エイリアン』(1979)を初めて観たときに、この2つの映画は役者も物語も違うが何か共通点がある、とノーランは感じた。そしてこれらは同一の人物リドリー・スコット監督によって作られたものだと知った。このときからノーランは映画全体のテイストをコントロールする映画監督という職業を強く意識するようになった。

 

13歳から18歳の間はまた別のヘイリーベリー・アンド・インペリアル・サービス・カレッジという全寮制の私立学校に通うことになる。ここもまた軍隊式の厳しい学校で、きちっとした制服を着て、分刻みで行動が定められており、教科書を抱え息を切らしながら次の教室へと向かう生活を送っていた。こういった経験が今日の、いつもスーツで撮影時間をきっちり守るノーランの厳格なスタイルの元になっている。

夜になると疲れ切った同級生たちはすぐに眠りにつくが、ノーランはベッドの中でウォークマンのバッテリーが切れるまで映画音楽を聴きながら物語についての想像力を膨らませていった。

 

ヘイリーベリー卒業後の1年間は、旅をしたり友人達と短編映画を撮ったりして過ごした。その短編映画の1つが『Tarantella』(1989)である。

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これは現在観ることができる最も古いノーラン作品であり(32年間フィルムの所在が不明であったが2021年に発見された)、ノーラン自身が出演している唯一の映画でもある。ちなみにもう一人の出演者は弟のジョナサン・ノーランである。ノーランはこの作品について次のように言及している。

「これはただのシュールな短編で、イメージをつなぎ合わせたものだ」

 

後のノーラン作品に出てくる要素が所々に存在していることがわかる。例えば、冒頭に出てくるタイプライターは『フォロウィング』にも登場するもので、これは21歳の誕生日に父親からもらったものである。分ごろには『メメント』や『TENET』でお馴染みの逆再生が使われ、最後にジョナサンが疾走するシーンは、『バットマンビギンズ』『ダークナイト』でカーチェイスシーンの撮影が行われた場所である。

 

成績がかなり優秀だったノーランは、世界大学ランキングでも上位に入る難関校ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)の英文学科に進学する。(ちなみにノーランは数学も得意で、さらにはラグビーもかなりの腕前であった。)ここで彼は後のパートナーであり、ほぼ全てのノーラン作品のプロデュースを行うことになる、エマ・トーマスと出会う。そして彼女と共にUCLの映画&テレビクラブに入部し、大学生活の大半をその部室で過ごすことになる。ノーランの本格的な映画研究がここから始まった。

 

大学卒業後(1993年~1997年)

UCL卒業後、ノーランは映画学校に通おうとしたが行きたかった所に入れなかったため、企業向けのメディアトレーニング用動画を作成する「エレクトリック・ウェーブス」という会社で働くことになる。ここで働きながらノーランは初の長編映画『Larry Mahoney』に取り組む。学生が他の人物になりすます話の映画だったようだが、この企画は頓挫してしまう。

この頃ノーランはエマと共にニュージャージー州のアパートに住んでいたが、ある夜空き巣に入られてしまう。彼はこの出来事にショックを受けるが、この経験を映画に取り入れようと考えるようになる。そして、ノーランはある週末に1日で『Larceny』(1995)を撮影する。この映画はケンブリッジ映画祭で上映され高い評価を得たものの一般公開はされていない。が、ノーランが所属していたUCLの映画クラブのWebサイトに場面写真が公開されている。

『Larceny』場面写真

引用元:

https://web.archive.org/web/20120810232748/http://www.ucl.ac.uk/~uczxflm/productions/archive/9495/



この『Larry Mahoney』と『Larceny』を組み合わせてノーラン長編映画第一作『フォロウィング』(1998)が誕生するのだが、その前にもう一つ短編映画を制作している。それが『Doodlebug』(1997)である。

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このあたりから今の「ノーランらしさ」を強く感じられるようになる。多次元的な構造やハッとさせられるような気の利いた終わり方など後の作品にも通ずるところが見受けられる。

 

次回

次は「クリストファー・ノーラン全史①  -『フォロウィング』編‐ 」を書きたいと思います。