クリストファー・ノーランはなぜ映画監督になったのか
『ダークナイト』三部作、『インセプション』『インターステラー』などの、作家性を全面的に押し出しながら興行的にも批評的にも大成功を収めている映画監督クリストファー・ノーラン。関連書籍やインタビュー、オーディオコメンタリーなどを元に、ノーランが長編監督デビューするまでの歴史を簡単にまとめていきます。
幼少期(1970年~1980年)
1970年、客室乗務員(後に国語教師)でアメリカ人の母と、広告代理店で働くイギリス人の父の比較的裕福な家庭のもと、3人兄弟の次男としてロンドンで誕生しました。幼少期はイギリスで暮らしつつ、夏はアメリカにある母方の祖母の家で過ごすという生活を送っていました。彼はイギリス人でありアメリカ人でもあるのです。(両国の国籍を持っています。
ノーランが映画の世界に足を踏み入れるきっかけとなったのは7歳のときに観た『スター・ウォーズ』(1977)でした。彼はこの映画に夢中になり、何度も繰り返し鑑賞し、制作方法や舞台裏について書かれているあらゆる本を読み漁りました。
翌年、ノーランは映画制作への道を決定付けるものと出会います。それは8歳の誕生日のときに父親から貰った8mmフィルムカメラです。彼はこれを使って友人達とスター・ウォーズを模した『Space Wars』(1978)という映画を制作しました。登場人物はおもちゃのフィギュアで、卵の箱やトイレットペーパーの芯でセットを作り、小麦粉を使って爆発を再現するなど、工夫を凝らしたものだったようです。ここからノーランの映画作りの道が始まりました。
学生時代(1981年~1992年)
11歳のときに一家はイギリスに戻り、父親の意向でノーランは私立の寄宿学校に通うことになります。非常に厳格な学校で、食事は不味く、些細な違反でも鞭で打たれるような場所でした。ここでは毎週映画の上映がありましたが、それはあくまでも生徒たちの士気を高める目的の戦争映画ばかりでした。ところがある時、『ブレードランナー』(1982)を30分だけ観させてもらえる機会がありました。ノーランは後に『エイリアン』(1979)を初めて観たときに、この2つの映画は役者も物語も違うが何か共通点がある、と感じました。そしてこれらは同一の人物リドリー・スコット監督によって作られたものだと知りました。このときからノーランは映画全体のテイストをコントロールする映画監督という職業を強く意識するようになったのです。
13歳から18歳の間はヘイリーベリー・アンド・インペリアル・サービス・カレッジという別の全寮制の私立学校に通うことになります。ここもまた軍隊式の厳しい学校で、きちっとした制服を着て、分刻みで行動が定められており、教科書を抱え息を切らしながら次の教室へと向かう生活を送っていました。こういった経験がいつもスーツ姿で撮影時間を必ず守るノーランのスタイルの元になっています。
夜になると疲れ切った同級生たちはすぐに眠りにつきますが、ノーランはベッドの中でウォークマンのバッテリーが切れるまで映画音楽を聴きながら物語についての想像力を膨らませていました。
ヘイリーベリー卒業後の1年間は、旅をしたり友人達と短編映画を撮ったりして過ごしました。その短編映画の1つが『Tarantella』(1989)です。

引用元:
https://www.imdb.com/title/tt6386408/
これは現在観ることができる(一時、YouTubeにアップロードされいたが現在は削除済み。正式な手段で観る方法は無いと思われる。)最も古いノーラン作品であり、ノーラン自身が出演している唯一の映画でもあります。ちなみにもう一人の出演者は弟のジョナサン・ノーランです。ノーランはこの作品について次のように言及している。
「これはただのシュールな短編で、イメージをつなぎ合わせたものだ」
この言葉通り、ストーリーがあるような作品ではないですが、後のノーラン作品に出てくる要素が所々に存在していることがわかります。例えば、冒頭に出てくるタイプライターは『フォロウィング』にも登場するもので、これは21歳の誕生日に父親からもらったものです。また、『メメント』や『TENET』でお馴染みの逆再生が使われたり、最後にジョナサンが疾走するシーンは、『バットマンビギンズ』『ダークナイト』でカーチェイスシーンの撮影が行われた場所であったりと、ノーランファンには馴染み深い描写や風景か登場します。
成績がかなり優秀だったノーランは、世界大学ランキングでも上位に入る難関校ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)の英文学科に進学します。(ちなみにノーランは数学も得意で、さらにはラグビーもかなりの腕前でした。)ここで彼は後のパートナーであり、ほぼ全てのノーラン作品のプロデュースを行うことになる、エマ・トーマスと出会います。そして彼女と共にUCLの映画&テレビクラブに入部し、大学生活の大半をその部室で過ごすことになります。ノーランの本格的な映画研究がここから始まりました。
大学卒業後(1993年~1997年)
UCL卒業後、ノーランは映画学校に通おうとしましたが、行きたかった学校に入れなかったため、企業向けのメディアトレーニング用動画を作成する「エレクトリック・ウェーブス」という会社で働くことになります。ここで働きながらノーランは初の長編映画『Larry Mahoney』に取り組みます。学生が他の人物になりすます話の映画だったようですが、この企画は頓挫してしまいます。
この頃ノーランはエマと共にニュージャージー州のアパートに住んでいましたが、ある夜空き巣に入られてしまいます。彼はこの出来事にショックを受けますが、この経験を映画に取り入れようと考え、ノーランはある週末にたった1日で『Larceny』(1995)を撮影します。この映画はケンブリッジ映画祭で上映され高い評価を得たものの一般公開はされていません。が、ノーランが所属していたUCLの映画クラブのWebサイトに場面写真が公開されています。



引用元:
https://web.archive.org/web/20120810232748/http://www.ucl.ac.uk/~uczxflm/productions/archive/9495/
この『Larry Mahoney』と『Larceny』を組み合わせてノーラン長編映画第一作『フォロウィング』(1998)が誕生するのですが、その前にもう一つ短編映画を制作しています。それが『Doodlebug』(1997)です。

引用元:
https://tishak.blogspot.com/2014/04/doodlebug-1997-3-minutes-and-you-admit.html
こちらの映画は『フォロウィング』のクライテリオン版DVDに特典映像としてみることができます。
https://www.amazon.co.jp/Following-Criterion-Collection-Jeremy-Theobald/dp/B009D5LV8S
このあたりから今の「ノーランらしさ」を強く感じられると思います。多次元的な構造や気の利いたエンディングなど、後の作品にも通ずるところが見受けられます。
そしてこの翌年に『フォロウィング』で長編映画監督デビューを果たし、次々と革新的作品を打ち出していくのです。